OKINAWA1965 上映会を終えて

沖縄には32の米軍基地や施設があり、日本にある米軍基地・施設の7割以上が沖縄に集中しています。

映画のタイトルにある1965年は前回の東京オリンピックの翌年、選手の活躍もさることながら、競技場の建設や高速道路などのインフラ整備や雇用の増加で社会全体が盛り上がっていた時代でした。しかし、同じ年、沖縄では、学校を出て家に帰ろうと道を渡った7歳の少女がアメリカ軍のトラックに轢かれて亡くなった事件がありました。当時沖縄はまだアメリカの統治下にあり、沖縄でアメリカ軍が起こした事件が本土に伝わることはほとんどなく、たまたま「祖国復帰行進」に参加していた写真家が休憩をとっていた学校の前で起きた事故だったため写真を撮ることができました。のちに本土の新聞に掲載されアメリカの統治下にある沖縄の現実を広く知らせることになったのです。

この時代でも、若い世代の人たちは、沖縄の置かれている状況に対して、それほど強い問題意識はなかったと言います。かえって本土の沖縄出身の学生たちが、パスポートがなければ何もできない状況に業を煮やして「沖縄学生会」を組織し、復帰運動を展開し始めたことで意識が変化していったのです。

7月14日は3連休の初日だったが多くの人が参加

今も、沖縄で育った若い世代の人たちは「基地があるのが当たり前」「米軍のフェンスに囲まれた風景が当たり前」という環境で育ってきました。アメリカ兵と仲良くなって英語がうまくなりたいとか、基地で働きたいとか言う人たちもいて、沖縄の生活は常に米軍と一緒というなかで育ってきた世代には基地は身近な対象であって、敵対する存在ではなかったということなのです。アメリカ兵を否定するのではなく基地の機能を否定しているということです。今、基地が子どもたちにとって危険な存在になっていることを、墜落事故やレイプ事件などが起きたときだけ大きく報道され、改めて基地の問題が認識されていますが、起きている問題を自分のこととしてとらえ、政治の問題・基地の問題を自分たち自身の暮らしの問題としてとらえることの難しさは現地でも同じなのだと認識を新たにしました。沖縄の問題は、他人ごとではないのです。